腎結石と尿路結石の手術の感想
人間というのは、実にいい加減であるか、記憶があいまいであるかが、過去の日記を読
んで感じます。2005年の腎結石と尿路結石の手術の事は、読み返してみて記憶の違
いがある事に気が付きます。父の葬儀もあり、混乱していた事もあるのでしょうが、父
が亡くなる前に、これほど尿路結石の痛みで苦しんでいた事をすっかり忘れていました。
そういえば、私が激痛で救急外来に飛び込んで座薬のボルタレンを貰ったのは、父の入院療養していた武蔵野赤十字病院でした。外来を終え、父の病室まで行ったことを思い出します。そして父が亡くなる前日に日記を書いていたわけです。父の葬儀の時の事は、まったく日記には書いていませんが、今思い出すと、かなり自分でも大変な状態で通夜、葬儀を喪主として行っていたわけです。
父が亡くなって一週間程のちに、腎結石の手術をしたと思っていましたが、この手術は
尿管を広げる手術で、結石除去手術の前段階の手術だったわけです。
その手術の後、1か月ほど尿管に広げるための管が入っていたのを、日記を読んで思い
出しました。日記を読まなければ、全然記憶には残っていませんでしたから、その一か
月ほど管が入っていた時の下半身の違和感を思い出すこともなかったでしょう。
父が亡くなってからの1年半は、私にとって激動の年でした。
当時母も、持病のパーキンソン病から、今度は脳梗塞を起こし、更に腸が肛門から出て
しまうという状態で、入院を余儀なくされます。当時103歳だった私の祖母は、高齢者
の医療施設に入っていました。私の入院もあり、カミさんは、毎日のように、複数の病
院を回らなくてはなりません。
父が亡くなり、母は入院中で葬儀にも出席できず、父の死を知った時の母の顔は忘れら
れません。そして父の死から8か月後、武蔵野中央病院で療養中だった母が、静かにな
くなりました。一年未満に私は、二度目の喪主をする事になったのです。
更にその年の暮れ、祖母が104歳で亡くなりました。長女である母が、自分より先に亡
くなった事を、祖母はとても悲しんだのを思い出します。
その時に初めて、「次は私の番」と、自分が死ぬことに対して初めて意識したものです。
ところが母が亡くなって2年後、私とは11歳も年の離れた妹が、くも膜下出血で急死し
ます。これで全て、私の周りの家族を失ったのです。私の築いた家族、カミさんと息子
、娘、そして私が、新たな家族を築いていかなければならないのです。
「親死に、子死に、孫が死に」
一休禅師が、豪商の家の結婚式の時に残した言葉です。
これを見た豪商は、「おめでたい席なのに、どういう事だ」と激怒したそうです。
禅師曰く、「順番に死んでいく事が、幸せなことなのだ」と説いたと言います。
この言葉は、私にはとても理解できるのです。自分の娘を亡くした祖母。妹を亡くした
私。息子や娘、これから生まれてくるだろう孫たち。私が元気である限り、私以上に元気で長生きして貰いたいと思っているのです。
病との付き合いは、どれも辛いことが多いのですが、それを看護したり、サポートする
家族たちも大変である事も忘れては行けませんね。
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